古代の息吹が残る秋田の史跡を巡る旅
霊峰・太平山や雄大な日本海に囲まれた秋田市は、江戸時代に久保田藩20万石の城下町として栄えたことは知られていますが、それ以前からしばしば我が国の歴史の中に登場しています。古代の息吹を伝える秋田の史跡を旅してみました。
秋田城跡史跡公園
「秋田城跡史跡公園」は、かつての秋田城の遺構を復元して公園化したもので、「高清水公園」とも呼ばれます。
『日本書紀』にはすでに斉明天皇4年(658)、齶田を訪れた阿倍比羅夫の船団におののいた蝦夷が降伏した旨が記されており、この「齶田(あぎた)」が現在の「秋田」のことといわれています。
続いて『続日本紀』には天平5年(733)に「出羽柵遷二-置於秋田村高清水岡一」とあり、これまで庄内地方に置かれていた出羽柵が秋田に移ったことがわかります。
その後「秋田城」と改称され、奈良時代・平安時代を通じてこの地の政治・軍事・外交の中心となった大規模な城柵官衙遺跡として、昭和14年(1939)には国史跡に指定されました。
いくつかの学説があるものの、この地には出羽国府が置かれた時期があり、また渤海(中国東北部)との外交拠点としても機能していたとみられています。
発掘調査の結果として、今の秋田県護国神社の南側に、東西94メートル、南北77メートルからなる政庁があったことが判明しており、現地にはその中心に位置する正殿などの建物の柱穴や、奈良時代の政庁東門と築地塀の姿が復元されています。
この政庁東門からは幅12メートルの古代の大路が外郭東門まで延びており、さらに先には古代沼が水をたたえています。
面白いところでは、古代沼の近くから奈良時代の古代水洗厠舎跡(トイレ)が発掘されており、沈殿槽に溜まった汚物の上澄みが沼地に流れるようになっていました。
政庁跡から羽州街道を挟んだ反対側には「秋田市立秋田城跡歴史資料館」が開館し、秋田城跡から発掘された武具の一部「非鉄製小札甲」や珍しい貨幣「和同開珎銀銭」、何らかのまじないに使った「人面墨書土器」、子供の成長を願い胎盤を埋納した「胞衣壺」、その他漆紙文書や木簡、ジオラマなどを展示しています。
■所在地:秋田県秋田市寺内大畑
■電話番号:018-845-1837(秋田城跡歴史資料館)
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR秋田新幹線・奥羽本線・羽越本線「秋田駅」より秋田中央交通バス(将軍野線又は寺内経由土崎線)で約20分、「秋田城跡歴史資料館前バス停」下車/秋田自動車道「秋田北インターチェンジ」から車で5分
■駐車場:無料
太平山三吉神社
「太平山三吉神社」は、霊峰といわれる太平山の山頂に奥宮が鎮座する古社ですが、これとは別に市街地のほうにも里宮が存在します。
天武天皇治世の白鳳2年(646年)、修験道の開祖である役小角が創建し、延暦20年(801)には征夷大将軍・坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を再興したと伝えられています。
もともと古代から太平山を拠点に修験道の霊場となっていたところに、新たに藤原三吉への信仰が加わったものが、現在の「太平山三吉神社」の姿といえます。
ここでいう三吉とは、幼名を鶴寿丸という室町時代の太平城主で、敵に攻められて領地を失い、太平山中に逃れて憤怒のあまり鬼神と化したものの、人々に祀り上げられることで勝負の神に変わったというものです。
「太平山三吉神社」は、久保田藩主の佐竹家からも崇敬を受け、赤沼の別邸「雪見御殿」を寄進されており、これが現在の里宮となっています。
東北地方には三吉神社が多く分布しており、太平山三吉神社はこれらの総本社であり、太平山に登って奥宮を参拝する三吉講も盛んです。奥宮には参籠所もあり、宿泊することができます。
毎年1月17日には「三吉梵天祭」が行われており、これは五穀豊穣・家内安全・商売繁昌などを祈願し、竹でできた梵天と呼ばれる依代を奉納する神事です。境内で激しくもみ合いながら先陣を競うところから「けんか梵天」の異名があります。
■所在地:秋田県秋田市広面字赤沼3-2
■電話番号:018-834-3443
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR秋田新幹線・奥羽本線・羽越本線「秋田駅」から秋田中央交通バス(太平方面行)10分、「三吉神社入口バス停」下車/秋田自動車道「秋田中央インターチェンジ」から車で10分
■駐車場:無料
古四王神社
「古四王神社」は、「秋田城跡史跡公園」から南に500メートルほどの場所にある神社です。
古代、高志国(北陸)平定のために崇神天皇が派遣したという「四道将軍」の一人・大彦命が軍神・武甕槌命を祀り、「齶田浦神」と称したのが始まりで、ついで阿倍比羅夫が大彦命を合祀して「古四王」と称したといわれています。江戸時代の国学者・高階貞房の『おほまあらこ』にも「越後人の説とて鎌田正安がいへるは、古四王は越王にて大彦命を祭れるなり」とあります。
境内にはまた、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に当たり戦勝を祈願したという「田村神社」も鎮座しています。
秋田城鎮守の神であった「古四王神社」は、中世から近世にかけては秋田氏や佐竹氏にも崇敬され、社領の寄進を受けているほか、庶民にも眼病平癒や五穀豊穣の神として慕われました。
明治時代には近代社各制度の中で国幣小社に列せられており、これは秋田県内でも最も社格の高い神社です。
■所在地:秋田県秋田市寺内児桜1-5-55
■電話番号:018-845-0333
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR秋田新幹線・奥羽本線・羽越本線「秋田駅」から秋田中央交通バス(将軍野線・寺内経由土崎線)15分、「寺内地域センターバス停」下車/秋田自動車道「秋田北インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料
菅江真澄の墓
「菅江真澄の墓」は、「古四王神社」の鳥居を出てまっすぐ南西に400メートルほど進んだ寺内共同墓地の中にあります。
菅江真澄はもと三河国の出身で、江戸時代に遠く蝦夷地に至るまで諸国を訪ね歩き、その風俗や習慣を『菅江真澄遊覧記』などの書物にまとめた紀行家です。
文政12年(1829)、角館町又は神代村(ともに今の仙北市)で客死したといわれ、親交があった古四王神社摂社・田村神社神官の鎌田正家に引き取られ、当時の寺内村に埋葬されました。
三回忌を期して建てられた墓石の表面中央には「菅江真澄翁墓」とあり、その周囲に国学者・鳥屋長秋による長歌がびっしりと彫り込まれています。
この菅江真澄は、実は秋田の古代を語る上では外せない人物の一人で、その著書『水の面影』を見ると、寺岡村に伝わる古城の跡というのは、『続日本紀』にいう高清水の丘であるとして、早くも秋田城跡の所在について言及しています。
■所在地:秋田県秋田市寺内大小路137
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR秋田新幹線・奥羽本線・羽越本線「秋田駅」から秋田中央交通バス(将軍野線・寺内経由土崎線)15分、「寺内地域センターバス停」下車、徒歩10分/秋田自動車道「秋田北インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料(ただし、墓地入口の階段からさらに100メートル西にある)