親鸞・謙信から松平忠輝まで-歴史のまち上越を旅する

五智国分寺三重塔 観光
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日本海に面し、関川沿いの平野部に市街地が広がる上越市は、古くから越後国府が置かれ栄えた場所です。
中世には親鸞が越後国府に配流され、戦国大名として有名な上杉謙信が居城を構え、江戸時代には徳川家康の子・松平忠輝が高田の町を開きました。
こうした歴史と文化に彩られた上越市内には、さまざまな名所旧跡が残されています。

居多神社:親鸞が上陸した居多ヶ浜近くの式内社

居多神社
上越市の中でも日本海寄りに鎮座しているのが「居多神社」で、海岸の浸食により明治時代に現在地に遷座するまでは、さらに海岸近くの身輪山に境内地がありました。

この「居多神社」は、大国主命・奴奈川姫・建御名方命を御祭神としていますが、もとは「こた」ではなく「けた」と呼び、日本海沿岸に多い大国主命を祀る「気多神社」と同系統の神社であろうといわれています。

古くは今の上越市内に越後国府が置かれていたことから、越後国一宮として国司や越後守護の上杉氏から崇敬されてきました。

鎌倉時代の建永2年(1207)には、後鳥羽上皇が熊野御幸の留守中、法然の弟子のもとに御所の女房が出向いて勝手に出家する事件が起こります。
激怒した後鳥羽上皇は、専修念仏停止の院宣を下し、法然の弟子4人を死罪にするとともに、法然を土佐国へ、親鸞を越後国府へと流罪にしました。

これがいわゆる「承元の法難」(「建永の法難」ともいう)ですが、越後国府に配流となった親鸞は居多ヶ浜に上陸し、真っ先に参拝したのがこの神社だといい、「越後七不思議」の一つである親鸞にちなんだ「片葉の葦」の伝説が残っています。

「居多神社」には鎌倉時代の木造の狛犬や中世から近世にかけての古文書が残されており、ともに上越市の指定文化財です。

居多神社
■所在地:新潟県上越市五智6-1-11
■電話番号:025-543-4354
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR信越本線「直江津駅」から頸城バス(春日山線)7分、「五智国分寺裏門バス停」下車、徒歩5分/北陸自動車道「上越インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料

五智国分寺:越後国分寺の後継寺院で親鸞の草庵跡が残る

五智国分寺
「居多神社」の近くには、大日如来・薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来からなる高さ4尺(1.2メートル)の五智如来を本尊とする「五智国分寺」があります。

奈良時代に聖武天皇の詔により諸国に建てられた国分寺の後継寺院に当たり、もとの国分寺の位置は明らかではありませんが、戦国時代の永禄5年(1562)に上杉輝虎(謙信)が移転・再興したといわれています。

境内には上越地方に唯一残る江戸幕末の慶応元年(1865)に上棟された「三重塔」があり、新潟県の重要文化財に指定されています。

越後に流罪となった親鸞が最初に住んだ場所が、境内にある「竹之内草庵」の跡で、当時は竹に覆われていたことからこの呼び名があります。
親鸞が関東布教のために越後を去るに当たり、境内すぐ北の「鏡ヶ池」に姿を移して自ら刻んだという「親鸞聖人坐像」が、草庵跡に明治時代に建てられた「親鸞堂」の中に安置されています。

五智国分寺
■所在地:新潟県上越市五智3-20-21
■電話番号:025-543-3069
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR信越本線「直江津駅」から頸城バス(春日山線)7分、「五智国分寺裏門バス停」下車/北陸自動車道「上越インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料

光源寺:親鸞自筆の御影や村上義清の供養塔がある寺院

光源寺
「五智国分寺」の南300メートルほどの場所には浄土真宗の「光源寺」があります。

もと木曽義仲の家臣で親鸞に帰依して出家した覚円坊最信が、鎌倉時代の建暦元年(1211)に開いたという寺院です。

天正3年(1575)、本願寺十二世の教如から「光源寺」の寺号を受け、「覚円坊」から改称しました。

本堂の中央には、順徳天皇から罪を赦された喜びの姿を自ら描いたという「流罪勅免御満悦御真影」が掲げられており、ほかにも流罪となった際に付けられた俗名「藤井善信」を大書した「流人表札」などが安置されています。

また、境内墓地には信濃国葛尾城主・村上義清が父の供養のために永禄11年(1568)に建てた五輪塔があります。
武田信玄に破れた村上義清は城を捨てて越後に逃れ、長尾景虎(上杉謙信)に援軍を要請したことから、以後5回にわたる上杉・武田両軍の「川中島の戦い」が起こりました。
村上義清は失地回復を果たすことなく、天正元年(1573)に今の糸魚川市にある根知城で亡くなっています。

光源寺
■所在地:新潟県上越市国府1-4-1
■電話番号:025-543-4263
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR信越本線「直江津駅」から頸城バス(山麓線ほか)6分、「五智三丁目バス停」下車、徒歩3分/北陸自動車道「上越インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料

春日山城跡:上杉謙信の居城だった険阻な山城

春日山城跡
頸城平野を見下ろす春日山の要害の地に築かれた大規模な山城が「春日山城」です。

戦国大名として有名な上杉謙信の居城があったところで、「日本百名城」の一つになっています。

現在は上杉謙信を祀る「春日山神社」のある場所までは自動車で登ることができますが、ここはかつての「政所」の跡といわれています。

標高180メートルの本丸跡までを歩く途中には無数の堀や土塁が残っており、難攻不落といわれた往時の様子をうかがい知ることができます。

春日山神社から上杉三郎景虎屋敷跡、二の丸跡、御成街道、上杉景勝屋敷跡を経て本丸・天守台跡まで登り、大井戸、不識庵跡(毘沙門堂)、直江屋敷跡、千貫門跡を経て神社まで戻るルートを歩くと1時間ほどかかります。

春日山城跡
■所在地:新潟県上越市中屋敷地内ほか
■電話番号:0255-21-6280(上越市埋蔵文化財センター:御城印を頒布)
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:北陸自動車道「上越インターチェンジ」から車で15分(春日山神社まで)
■駐車場:無料

林泉寺:若き頃の謙信も学んだ上杉家の菩提寺

林泉寺
林泉寺」は、春日山の山麓にある曹洞宗の寺院で、室町時代の明応6年(1497)、越後守護代・長尾能景が、父の長尾重景の菩提を弔うために創建したものです。

幼名を「虎千代」といった上杉謙信は、この「林泉寺」に預けられ、7歳から14歳までを住職の天室光育のもとで厳しく育てられました。
また、天室光育から住職の座を譲られた益翁宗謙から一字をもらい、「謙信」という法号を名乗ったことでも知られ、上杉謙信とはゆかりの深い寺院です。

後に林泉寺は上杉家の菩提寺となり、上杉家の国替え後に領主となった堀家をはじめとする諸家も同様に菩提寺として手厚く保護しています。

境内の入口に建つ「惣門」は春日山城から移築したと伝えられ、「山門」の「第一義」とある篆額も謙信の自筆(本物は「宝物館」で保管)です。

本堂脇の山の斜面には、川中島合戦の戦死者の供養塔や上杉謙信の墓もあります。

なお、山形県米沢市には、上杉景勝の会津転封に従い越後から移転したとする別の「林泉寺」があります。
林泉寺
■所在地:新潟県上越市中門前1-1-1
■電話番号:025-524-5846
■拝観料:小・中学生250円、大人500円
■営業時間:10:00~16:00(拝観受付は15:30まで)
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:JR信越本線「直江津駅」から頸城バス(春日山・佐内線)15分、「林泉寺入口バス停」下車/北陸自動車道「上越インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料

高田城址公園:松平忠輝が築いた関川沿いの平城

高田城
徳川家康の六男・松平忠輝は、慶長15年(1610)に関川の河口にあった越後福島城の城主となりましたが、慶長19年(1614年)、水害を避けるために関川をさらに遡った場所に新たな居城を築きました。

これが「高田城」であり、現在は図書館や陸上競技場、市立総合博物館、市民交流施設高田城址公園オーレンプラザなどの公共施設が集まる「高田城址公園」として一般に開放されています。

この城は天下普請によりわずか4ヶ月足らずで竣工したもので、230メートル四方ほどの本丸を二の丸や三ノ丸が取り囲み、関川の流れをうまく外堀として活用しています。

徳川家と豊臣家の決戦となる「大坂の陣」を間近に控えた時期であり、竣工までの異例のスピードに加えて、石垣がなく土塁を巡らしていること、天守をつくらなかったことなどの特徴がみられます。

戦前には本丸跡に帝国陸軍第十三師団が置かれた時期があり、在郷軍人会がこれを記念して桜の植栽を行ったことをきっかけとして、現在に至るまで桜の名所としても親しまれています。

平成5年(1993)には「上越市発足20周年記念事業」の一環として、園内に「高田城三重櫓」が再建されました。
内部は1階・2階が展示室、3階は展望室として活用されています。

高田城址公園
■所在地: 新潟県上越市本城町44-1
■電話番号:025-524-3120(上越市歴史博物館)
■営業時間(三重櫓のみ):9:00~17:00、ただし12月~3月は10:00~16:00
■入館料(三重櫓のみ):一般310円、小中高生160円
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:えちごトキめき鉄道「高田駅」からくびき野バス10分、「高田城址公園バス停」下車/上信越自動車道「上越高田インターチェンジ」から車で15分
■駐車場:無料

浄興寺:稲田草庵が起源の親鸞遺骨を納める寺院

浄興寺
高田の寺町にかつての塔頭寺院とともに建つ「浄興寺」は、親鸞が開いたとされる寺院です。

越後に流罪となっていた親鸞は、赦免後に布教のため常陸国(今の茨城県)へと移り、「稲田草庵」で浄土真宗の根本聖典ともいえる『教行信証』を著しました。

元仁元年(1224)、『教行信証』が成った喜びを「歓喜踊躍山浄土真宗興行寺」、略して「浄興寺」の寺号に託し、この草庵に名付けたのが始まりといわれています。

しかし、その後「浄興寺」は相次ぐ火災のために諸国を転々とすることを余儀なくされ、ようやく永禄10年(1567)に上杉謙信の招きで春日山城下に移り、堂宇を建立することができました。

さらに上杉氏の転封で春日山城が廃城となると福島城下へ、福島城が廃城となり松平忠輝による高田城が築城されると高田城下へ移り、寛文5年12月(1666年2月)の高田地震後に現在地へと移っています。

江戸時代の本堂は国重要文化財に指定されているほか、本廟に親鸞の頂骨(頭の骨)を納める「六角宝塔」を安置しています。

なお、「稲田草庵」の旧跡である茨城県笠間市には別に「西念寺」があり、「稲田御坊」と呼ばれています。
浄興寺
■所在地:新潟県上越市寺町2-6-45
■電話番号:025-524-5970
■拝観料:境内自由、「宝物殿」は大人500円、学生400円
■営業時間:「宝物殿」は9:00~16:00
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:えちごトキめき鉄道「高田駅」から徒歩10分/上信越自動車道「上越高田インターチェンジ」から車で5分
■駐車場:無料
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Travelogues
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