かつて木曽川の川湊として栄えた岐阜県笠松町の観光スポット
岐阜県の現在の県庁所在地・岐阜市に隣接する羽島郡笠松町は、かつて木曽川の川湊として栄えたところで、川沿いの低地一帯に古くからの町並みが広がっています。江戸時代には幕府直轄地を支配する美濃代官(郡代)の笠松陣屋が置かれ、明治時代に入ってからも笠松県庁、次いで岐阜県庁が置かれるなど、交通の要衝であり、また政治・経済の中心地でもありました。
鮎鮨街道・笠松問屋跡
「鮎鮨街道・笠松問屋跡」は、江戸時代に将軍への献上品である鮎鮨が通った旧街道と、荷物を継ぎ立てた問屋場の跡です。
慶長8年(1603)、大久保長安が将軍・徳川家康と秀忠に鮎鮨を献上したのにはじまり、元和元年(1615)以降は毎年6月から9月にかけて月6回ほど、今の岐阜市にあった御鮨元(御鮨所)から、ここ笠松問屋を経由して江戸に鮎鮨が送られていました。
この鮨は長良川の鵜飼で獲れた鮎を加工したいわゆる熟鮨(なれずし)で、江戸で食べ頃になるように岐阜から江戸までの道中を5日ほどで運ばれたといいます。
■所在地:岐阜県羽島郡笠松町下新町
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:東海北陸自動車道「一宮木曽川インターチェンジ」から車で15分/名古屋鉄道竹鼻線「西笠松駅」から徒歩5分
大臼塚跡
「大臼塚跡」は、木曽川橋西詰近くの河川敷にある、江戸時代の笠松陣屋の処刑場跡です。「大臼」(だいうす)とはポルトガル語で神を指すデウスのことで、我が国のキリシタン関連遺跡のひとつです。
寛永14年(1637)から翌年にかけての「島原の乱」後、全国的にキリシタンへの弾圧が厳しくなり、尾張藩領や周辺の旗本領でも摘発が相次ぎました。寛文4年(1664)、尾張北方(今の愛知県一宮市)付近のキリシタン数十人がここで打首となり、また『尾濃羽栗見聞集』にも、元禄11年(1698)に濃州可児郡塩方村(塩村とすれば今の岐阜県可児市)の百姓35、6人が処刑され、遺体を埋めたしるしに「大宇須塚」が築かれたと記されていますが、この年号を誤りとする説もあります。
この場所には松の古木があったといいますが、現在は松はおろか塚の痕跡もなく、ただ「史跡 大臼塚跡」と記した木柱が建つのみです。
笠松善光寺・大臼塚跡の石碑
「大臼塚跡の石碑」は、かつて「大臼塚跡」にあった石碑です。江戸時代前期にキリシタンを処刑した「大臼塚」付近の河原は、その後も一般罪人の処刑場として用いられており、天保15年(1844)に「南無阿弥陀仏」「南妙法蓮華経」と刻む供養塔が建てられました。
また、「笠松善光寺」は、もと笠松陣屋の牢屋があった場所で、元文元年(1736)、恵澄居士・恵教尼夫妻が敷地を寄進し、斬罪人の供養のために一宇を建立したのがはじまりです。明治時代に官有地だった斬罪場の払下げを受けて寺地を拡張しました。同じく明治時代に「大臼塚跡」にあった供養塔を境内に移設しており、現在も本堂の向かいにあります。
■所在地:岐阜県羽島郡笠松町下新町42
■電話番号:058-387-2673
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:東海北陸自動車道「一宮木曽川インターチェンジ」から車で15分/名古屋鉄道竹鼻線「西笠松駅」から徒歩5分
美濃郡代笠松陣屋・笠松県庁跡
「美濃郡代笠松陣屋・笠松県庁跡」は、江戸時代から明治時代にかけて陣屋や県庁が置かれていた跡地です。
江戸時代には幕府直轄地を支配するため、諸国に代官が置かれましたが、なかでも関東・飛騨・西国・美濃の4つは支配地域がおよそ10万石以上と広大で、他の代官よりも格式が高い「郡代」が任命されるようになりました。「笠松陣屋」は郡代(代官)の役所や役宅の集まりであり、寛文2年(1662)に美濃代官・名取半左衛門が開設しました。
明治元年(1868)には新設された「笠松県」の県庁が引き続きこの場所に置かれ、県知事には元福井藩士の長谷部恕連(よしつら)が任命されますが、明治4年(1871)、美濃国の9県が合併して「岐阜県」が成立すると、最初の県庁がここに置かれ、以後は現在の岐阜市に県庁が移転するまで県政の中心となりました。
■所在地:岐阜県羽島郡笠松町県町
■電話番号:058-388-3231(笠松町教育文化課)
■公式サイト:[こちらをクリック]
■交通アクセス:東海北陸自動車道「一宮木曽川インターチェンジ」から車で10分/名古屋鉄道竹鼻線「笠松駅」又は「西笠松駅」から徒歩10分